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山口地方裁判所 昭和46年(ワ)169号 判決 1976年8月09日

原告

増野きくえ

原告

増野町子

右両名訴訟代理人

井貫武亮

被告

山口県

右代表者知事

橋本正之

右訴訟代理人

星野民雄

主文

被告は原告増野きくえに対し金七三万九一二〇円、原告増野町子に対し金一四七万八二四〇円、およびこれらに対する昭和四六年一〇月二八日以降各完済まで年五分の割合による金員を支払え。

原告らのその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを六分し、その一を被告の、五を原告の、各負担とする。

第一項はこれを仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

1  被告は、原告増野きくえに対し金三五〇万五七四二円、原告増野町子に対し金七〇一万一四八四円及び右各金員に対する昭和四〇年五月一一日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二、請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一、請求原因

1  (当事者)

(一) 原告増野きくえ(以下単に原告きくえという)は、増野忠(明治三九年四月四日生、以下単に忠という)の妻であり、原告増野町子(以下単に原告町子という)は、忠・原告きくえ間の長女である。忠は、昭和四六八月二〇日死亡した。

(二) 山口県立医科大学附属病院(以下単に山大病院という)は、被告の経営にかかるものである。

2  (診療契約)

忠は、昭和三九年九月二〇日、糖尿病及び腎盂炎による発熱と思い、山大病院第二内科に診療を求め、同日、病的症状の医学的解明及び異常に対する適切な治療を行うことを内容とする診療契約の締結を求め、被告との間に診察契約を締結し、同病院第二内科に入院した。そして、忠は、昭和四〇年五月一〇日、同病院を退院し、診療契約は終了した。

3  (債務不履行)

(一) 病状の診察と治療方法

被告の履行補助者であつた上部和彦医師(以下単に上部医師という)は、忠の主治医として、昭和三九年九月二一日から同月三〇日までの間各種検査をなし、忠の病状について、糖尿病、腎盂腎炎であり、その症状からして外科的手術に適さず、抗生物質等の投与により右症状が進行するのを押えることが必要であると診断した。

(二) 治療に伴う副作用防止義務

(1) 上部医師は、忠の病状の診察の結果、昭和三九年九月三〇日から昭和四〇五月一〇日までの間、主として抗生物質中カナマイシンの連続投与による治療を行つたが、その際カナマイシンの連続投与による副作用の発生について、その防止措置を怠つた。

元来、カナマイシンを長期間にわたり連続投与するときは患者の第八神経に障害を与え、その結果患者を回復治療不可能な難聴に陥らせることがあるものである。そして、患者の生命及び健康を管理すべき業務に従事する医師には、本来の治療目的に即して避けることのできない場合を除き、副作用によつて患者に損害を与えることのないよう高度の注意義務が要求され、殊に重篤で治療不可能な障害に陥る危険を防止するため最善の注意を払うべき義務がある。従つて、カナマイシンの連続投与をする場合、右副作用の発生を防止するため、カナマイシンの投与前若しくは投与中、患者の聴力検査をなし、右検査結果に応じて、カナマイシンの投与の中止・調節若しくは他の抗生物質の選択をなすとともに、副作用発生防止のための投薬等の治療をなし、右副作用ことに回復治療不可能な難聴に陥る危険を防止すべき最善の注意義務がある。

(2) 上部医師には、次の点に注意義務の懈怠がある。

イ 上部医師は、カナマイシンの連続使用により副作用として難聴をおこすことを熟知していながら、忠に対し、昭和三九年九月三〇日から忠の退院した昭和四〇年五月一〇までの二三一日間、忠の病状からするとその必要もないのに、カナマイシンを毎日投与した。

ロ 上部医師は、カナマイシンの投与期間中、忠のオージオメータの使用等による聴力検査をなさず、副作用の発生の探知を怠つた。そのため昭和四〇年二月一七日忠が耳鳴りを強く訴えた際、初めて山大病院耳科の診断を受けさせたが、忠は既に両耳とも音が聞こえなくなつていた。

ハ 忠の入院中、十数回に亘り尿中細菌培養テスト、薬物耐性テストが行なわれ、カナマイシン以外にアミノベンゾールペニシリン等の抗生物質も有効であるとの検査結果がでており、また、昭和三九年一二月二二日山大病院泌尿器科からカナマイシンの投与をやめるべきだとの診断結果がでているのにかかわらず、上部医師はカナマイシンの連続投与の中止若しくはその減量或いは他の薬への変更の措置をとらなかつた。

ニ 上部医師は、カナマイシンの連続投与による副作用発生防止のための予防的治療をなしていない。

(三) 結果の発生

忠は、昭和四〇年五月一〇日山大病院を退院した当時、右カナマイシン連続投与による副作用の結果、両耳難聴となり、かつ、三叉神経も犯されて歩行が著しく困難になつていた。

4  (損害)

(一) 治療費等の一部

忠は、前記のとおり難聴となつたため、山大病院退院後の昭和四二年一一月二六日から昭和四三年三月二〇日まで、及び昭和四四年一二月五日から昭和四五年八月四日まで、萩市全真会病院に入院してその治療を受け、入院料及び治療費として金三二万七一二六円、付添費及び諸雑費として金一八万〇一〇〇円、右合計金五一万七二二六円を支出した。これは同人の難聴治療に必要あつて支出した他所での治療費等を含む支出損害金の一部である。

(二) 慰藉料

忠は前記山大病院に入院した当時の満五七歳に至るまで何ら耳に異常がなかつたのに、入院したのち突然両耳難聴となつたことから大きな精神的打撃を受け、原告らに対する心遣いの点でも心痛は大きく、かつ、日常生活に多大な支障があつた。しかも、忠は昭和四〇年一月ころから両手のしびれ感があり、次第に耳が聞こえにくくなつたため、上部医師に対し、カナマイシンの連続投与による副作用ではないかと強く尋ね、耳の検査及びその治療を強く要望したのにかかわらず、適切な検査・治療も受けられないまま、ついに不治の両耳難聴となつたものである。

忠は、若くして政治家を志し、昭和二二年ころから一時期を除いて山大病院に入院するまで、須佐町長の要職にあり、更には山口県議会議員に立候補しようと考えていた。そして、昭和四〇年五月一〇日山大病院を退院した際、腎盂腎炎や糖尿病については町長職を遂行しうる程に体力は回復していたものの、両耳難聴のため、町議会から右両耳難聴を指摘して辞職勧告を受け、町民からもリコール運動を起こされるに至り、昭和四一年六月二〇日やむなく町長職を辞し、また、県議会議員への立候補を断念せざるを得なくなつた。

以上の諸事実並びに町長職を辞したこと及び山口県議会議員の立候補を断念したことに伴ない議員報酬等の経済的利益を得られなくなつたことによる精神的打撃からして、忠の難聴となつたことによる精神的損害を慰藉するためには金一〇〇〇万円を要した。

(三) 原告らの相続分

忠の(一)(二)の損害賠償請求権の金額合計は金一〇五一万七二二六円であるが、原告らはその法定相続分に従い、妻原告きくえは三分の一である金三五〇万五七四二円を、子原告町子は三分の二である金七〇一万一四八四円の損害賠償求権を承継取得した。

5  結論

よつて、被告に対し、原告きくえは、損害金三五〇万五七四二円、原告町子は、金七〇一万一四八四円及び右各金員に対する債務不履行の翌日である昭和四〇年五月一一日から完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二、請求原因に対する認否

1  請求原因1(一)(二)の各事実は認める。なお、山口県立医科大学は、昭和三九年四月一日国立大学への移管契約がなされ、昭和四二年五月三一日国立大学として発足した。

2  請求原因2の事実は、認める。

3(一)  請求原因3(一)の事実のうち、上部医師が忠の主治医であることは否認し、その余の事実は認める。主治医は、山大病院内科三瀬淳一教授(以下単に三瀬教授という)であり、三瀬教授が毎週月曜に回診し、上部医師に治療上の指示を与えたもので、上部医師は三瀬教授の指導を受けて忠の治療に当つていたものである。

(二)(1)  請求原因3(二)(1)の事実のうち、忠の入院期間中の主な治療行為がカナマイシンの投与であることは認めるが、その余の事実は争う。なお、忠の入院直後からの各種検査の後、昭和三九年九月三〇日、尿中細菌培養テスト及び薬物耐性テストの結果、抗生物質中カナマイシンのみ有効であるとの判断を得たので、同日からカナマイシンを投与することになつた。

(2)  請求原因3(二)(2)の事実のうち、上部医師に注意義務懈怠があつたとの点は争う。

同(2)イの事実のうち、上部医師が、カナマイシンの連続使用により、その副作用として第八神経に障害を与えて、難聴に陥らせ、その程度も回復可能な場合と、悪化すると回復治療不可能な難聴をおこすおそれがあることを熟知していたことは認めその余は争う。

上部医師が忠にカナマイシンを注射したのは、昭和三九年九月三〇日から同年一〇月二九日までの三〇日間並びに昭和三九年一一月七日から翌昭和四〇年五月一〇日までの一八五日間、合計二一五回、一日当り一グラムである。この間の経緯は次のとおりである。即ち、前記のとおり昭和三九年九月三〇日尿中細菌培養テスト、薬物耐性テストの結果、抗生物質中カナマイシンのみが有効であるとの結果を得たので、カナマイシンを一日一グラムずつ連続投与することにしたが、同年一〇月二六日に行なつた前同様の検査の結果ではポリミキシンBが有効であるとの結果を得たので、同月二九日限りでカナマイシンの投与を中止するとともに、右二九日から同年一一月一日までの四日間ポリミキシンB五〇ミリグラムを筋肉注射した。ところが疾病の緩解の状況を判断するため同薬の注射を中止して翌二日に行なつた前同様の検査では、細菌増量の傾向が見られ、かつカナマイシンのみ有効との結果を得たので、再び同年一一月七日からカナマイシンを一日一グラムずつ投与することにした。その後一一回に亘り前記両検査を行つたがその殆どがカナマイシンのみ有効との結果であつたので、忠の退院した昭和四〇年五月一〇日まで前同様にカナマイシンを投与したものである。

同(2)ロの事実のうち、上部医師が副作用の発生の探知を怠つたとの事実は否認する。昭和四〇年二月一六日忠が左耳の耳鳴りを訴えたため、翌一七日上部医師が山大病院耳鼻科に聴力テスト等を委託し、その診断を受けさせたことは認める。その結果、忠の両耳は、感音性難聴であるものの、両鼓膜には異常なしとの診断がなされた。同(2)ハの事実のうち、昭和四〇年一月から、尿中細菌培養テスト、薬物耐性テストの結果、カナマイシンとともにアミノベンゾールペニシリンも有効であるとの検査結果が出たこと、カナマイシンを昭和三九年九月三〇日から同年一〇月二九日までの間並びに昭和三九年一月七日から昭和四〇年五月一〇日までの間連続投与したことは認め、その余は争う。

同(2)ニの事実について争う。上部医師は、カナマイシンを継続投与するにあたり、昭和四〇年二月一二日から、糖尿病性神経炎の有効薬剤として神経賦活剤である活性ビタミンB12を継続投与したが、これはカナマイシンの副作用による難聴に対しても効果のあるものであつた。他方抗生物質投与によるビタミンCの欠乏にそなえて、当初よりビタミンCの投薬を継続していた。

(三)  請求原因3(三)の事実のうち、忠が、山大病院退院の際、カナマイ性難聴に陥つていたことは認め、その余の事実は否認する。

4(一)  請求原因4(一)の事実のうち、忠が原告主張の期間萩市全真会病院に入院したこと及び難聴の治療のため金二一万七三六一円を支出したことは認めるが、その余の事実は否認する。

忠が同病院に入院したのは、糖尿病、腎盂腎炎及び腎障害等の治療のためであり、難聴の治療のためではなかつた。

(二)  請求原因4(二)の事実のうち、忠が満五七歳まで耳に異常がなかつたこと、昭和二一年ころから、一時期を除いて山大病院入院当時ころまで須佐町長の地位にあり、昭和四一年六月二〇日間町長を辞職したことは認め、その余は争う。忠は、山大病院退院後死亡するまでの間、腎盂腎炎、糖尿病等のため、町長若しくは県議会議員の激職に堪え得る体調にはなかつた。

(三)  請求原因4(三)の事実のうち、忠と原告らの身分関係及び相続関係は認め、その余は争う。

三、抗弁

上部医師は、本件診断治療行為の前後を通じ、左記のとおり善良なる管理者の注意義務を完全に尽くしたものであり、カナマイシン連続投与による副作用である難聴について、被告に何ら帰責事由はない。

1  山大病院入院後の忠の病状は、糖尿病と腎盂腎炎等の合併症で、尿毒症に至るおそれもあり、その病状は悪く、死の危険すらあつた。

2  忠の病状から、もはや外科的手術は不可能であり、抗生物質等の投与により、右症状の進行を押える必要があつた。

3  上部医師は、入院直後の昭和三九年九月三〇日の尿中細菌培養テスト、薬物耐性テストの結果、抗生物質中カナマイシンのみ有効であるとの検査結果を得てカナマイシンを選択した。その後、忠の入院中のほぼ全期間を通じ、右両検査のカナマイシンのみ若しくはカナマイシンが有効であるとの結果にもとづき、カナマイシンを選択した。なお、三九年一〇月二六日実施の右検査によりポリミキシンBが有効であるとの結果がでたので、昭和三九年一〇月二九日から同年一一月一日までポリミキシンB五〇ミリグラムを注射したが、昭和三九年一一月二日実施の右同種検査により、尿中細菌増量の傾向を認めるとともに、カナマイシンのみ有効であるとの結果を得たので、その後ポリミキシンBを用いなかつたものである。アミノベンゾールペニシリンについては、忠が先にペニシリン含有薬物を使用していたため、同薬品の作用によるシヨツクの発生のあることをおそれるとともに、当時同薬品は、各種保険の適用がなかつたため、用いなかつたものである。

4  忠の当時の症状からして、生命維持、症状の進行防止のため、右のとおり有効と判断されたカナマイシンを一日当り一グラムずつ投与する必要があつた。

5  上部医師は、カナマイシンの連続投与に伴う副作用の発生について、事前に及び投薬中に、付添人である原告きくえに対し、忠の病状からカナマイシンの連続投与が必要であること及びその副作用として難聴のおそれがあることを十分に説明し、忠に対して手足のしびれ、耳鳴り、耳のきこえが悪くなるなどの自覚症状があつた時は直ちに連絡するように指導した。

6  忠の安静を要する病状から、体動が全身状態を悪化させるおそれがあつたため、上部医師は、体動を伴う聴力検査を避け、かつ、忠及び原告きくえに対しても、山大病院耳科外来に通院しないよう注意した。なお、忠は上部医師に無断で耳科外来の診療を受けたらしい。

7  上部医師は、昭和四〇年二月ころ、忠から耳鳴り等の自覚症状を訴えられたため、昭和四〇年二月一二日から難聴の進行を防止するため神経賦活剤である活性ビタミンB12を継続投与するとともに、昭和四〇年二月一七日山大病院耳科に聴力テストを行なわせるなどして、難聴の予防措置をした。

四、抗弁に対する認否

抗弁事実を争う。

第三  証拠<略>

理由

一請求原因1項(一)(二)の当事者の身分関係と同2項の忠と被告間の診療契約の締結及びその終了の事実については、当事者間に争いがない。

二当事者間に争いのない山大病院入院後の忠の病状と同病院における診療経過、治療に用いたカナマイシンの連続投与によりその副作用として難聴に陥つた事実及び<証拠>によれば、山大病院における忠に対する診断・治療の経過並びに忠の聴力障害の症状及びその経過等として、次の事実が認められる。

1  山大病院第二内科三瀬淳一教授のもとにいた同大学助手の上部和彦医師は、昭和三九年九月二〇日、これより前の同月一六日急性腎盂炎と診断されたためその病状の精密検査を訴えて来院した増野忠を、担当臨床医としてその診察にあたり、従前の病歴を問診するほか、触診などをなし、顔貌無気力で全身倦怠が著しく、発熱もあるところから、その発熱の原因を究明してその病状を解明し、その治療をなすべく、同日山大病院第二内科に入院させ、以後三瀬教授は主治医として上部医師は担当臨床医として忠に対し各種診察、検査と治療をすることになつた。

2  上部医師は、同月二一日から各種検査をなし、発熱の原因は糖尿病や腎臓の障害のためであるとの一応の判断から、同月二四日から同月二九日までの間、抗生物質であるクロラムフエニコール、メチロン、グスコバン、マイシリンなどを投与して降熱のための処置をとり、同月二八日には尿中細菌培養テストや、尿中から発見された腎盂腎炎の主要な病原菌とされているエリスロコリの薬物耐生テストをなし、同月三〇日ごろ、忠の病状は糖尿病と腎盂腎炎であると診断するとともに、その腎障害の病状からもはや手術による治療は不可能であり、抗生物質の投与による治療のほかないと判断し、また右薬物耐性テストの結果、抗生物質中カナマイシンのみ有効であるとの検査結果が判明したため、治療薬としてこれを選択するとともに、同薬の投与方法について一日当り一グラムずつ筋肉注射が必要であると判断し、同月三〇日から忠に対しカナマイシンを一日当り一グラムずつ筋肉注射した。その後一〇月一二日に、腎盂腎炎の病原菌とされているエリスロコリとスタフイロエピデミカの両菌について薬物耐性検査をなしたが、前同様カナマイシンのみ有効であるとの結果がでたため、引続きカナマイシンを継続投与した。その後同月二八日になしたエリスロコリについての前同様の検査の結果ではカナマイシンは無効で、ポリミキシンBのみ有効との結果が判明したので、カナマイシンを同月二九日までで中止し、同日から同年一一月一日までポリミキシンBを一日当り五〇ミリグラムずつ筋肉注射したが、同月二日になした尿中細菌培養テスト並びに二種の菌の薬物耐性テストの結果、尿中細菌の増量の傾向が認められるとともに、カナマイシンがやはり有効であるとの検査結果がでたため、再び同月七日からカナマイシンを一日当り一グラムずつ筋肉注射することにした。その後同月一三日、同月二七日、同年一二月七日、同月二一日、昭和四〇年一月五日、同月二二日、同年二月一〇日、同月二五日、同年三月一〇日、同年四月六日、同月二六日になした一一回にわたる尿中細菌培養テスト、薬物耐性テスト(なお、昭和三九年一一月二七日、同年一二月二一日の二回は、エリスロコリとスタフフイロピデミカの二種の菌について行い、他の九回はエリスロコリ菌のみの薬物耐性テストを行う)の結果、数回他の種類の抗生物質も有効であるとの検査結果が判明したものの、いずれもカナマイシンが有効であるとの結果がでたため、前記昭和三九年一一月七日から忠の退院した昭和四〇年五月一〇日まで、忠に対しカナマイシンを一日当り一グラムずつ毎日筋肉注射して投与した。

3  上部医師は、カナマイシンの投与により、その副作用として第八神経を犯し難聴に陥らせること並びにカナマイシンの用法が多量かつ長期にわたるときには、回復治療不可能な難聴に陥らせることは十分知つていたところ、昭和三九年一一月一三日以後の薬物耐性テストの結果、カナマイシンの他にも忠の治療に有効な抗生物質も認められたが、その有効性の程度においてカナマイシンが優るとの結果の方が多かつたこと並びにカナマイシンが腎機能に与える影響、副作用、いわゆる腎毒性の程度について十分承知していたことからカナマイシンのみを選択した。特にアミノベンゾールペニシリンについては、その腎毒性について知見が少なかつたうえ、忠が従前ペニシリン含有物を使用していたこともあつて、同薬使用によるシヨツクを危惧し、同薬が当時未だ保険薬として認められていなかつたことをも考慮して、忠に対しこれらを投与しようとは考えなかつた。他方、昭和三九年一〇月二九日から三日間にわたり投与したポリミキシンBについては、同薬を用いた後、尿中細菌が増量したことや、これが賢毒性の強い抗生物質であることを考えて、同年一一月以降はその有効性について尿中細菌耐性テストもしなかつた。結局、ポリミキシンBを用いた一時期を除いて、昭和三九年九月三〇日から同年一〇月二九日までの間、並びに同年一一月七日から昭和四〇年五月一〇日までの間、カナマイシンが最も忠の治療に有効な抗生物質であると判断して投与した。

4  上部医師は、忠の症状は腎盂腎炎の末期症状であり、糖尿病も併発しており、尿毒症の危険もあると考え、カナマイシンを継続投与していたところ、昭和三九年一二月一二日腎盂撮影を行い、山大病院泌尿器科にその症状の紹介をなした際、同月二二日泌尿器科から、糖尿病性腎盂腎炎の末期症状で、手術の適応性もなく逆行性腎盂撮影もすべきではない、カナマイシンの投与も一層腎障害を強くするから直ちに中止して下さいとの回答を受けたが、忠の病状から尿毒症の危険もあり、カナマイシンを投与しないことにより、腎障害の炎症の全身に及ぼす影響がなお危険であると判断し、カナマイシンを中止することなく前記のとおり引続きカナマイシンを投与した。

5  上部医師は、忠に対してカナマイシンを継続投与するに当り、第八神経を犯し難聴に陥らす等の副作用の発生のあり得ることを知つており、これを考慮しないわけではなかつたが、この副作用について、忠や原告きくえに予め十分な説明をせず、かつ、忠の病状から右副作用が生じやすい程継続的に多量のカナマイシンを投与する必要がある旨の説明をしなかつたうえ、諸検査に伴う忠の体動が主たる疾病に悪影響を及ぼすものと考え、特に一回当り約二時間を要するとされるオージオメーターによる聴力検査を進んでなそうとしなかつた。なお上部医師は昭和四〇年二月七日に至つて忠が手のしびれ感を訴えたことから同月一一日山大病院整形外科に紹介して受診させ、変形性脊椎症、肩甲関節周囲炎との診断結果を得て、右肩・右手の牽引や変形性徒手矯正などの方法による治療を行うのがよいと返事されたが、この療法も前記同様体動に伴なう悪影響があるとして、これにかわつて神経賦活剤であるビタミンB12を投与することとし、同月一二日からこれを投与した。そして上部医師は、同月一七日忠から、次第に耳が聞こえなくなり耳鳴りが強くなつたことを訴えられたため、はじめて山大病院耳科に聴力検査を依頼したところ、その検査結果として両耳の鼓膜所見は正常であるも、両耳とも神経性難聴であると診断され、耳鳴りを押えるための薬剤の投与で経過をみることに加え、難聴の治療として両耳への通気による治療方法を指示されたが、右療法も前記同様体動に伴なう悪影響があるとしてこれをなさず、山大病院耳科に対し、前記認定の手のしびれの関係で用いることになつたビタミンB12により難聴の進行を抑制できるものかと照会し同科から同薬を使用してみるのもよいとの返事があつたことから、ビタミンB12を引続き投与することにとどめた。上部医師は、同年二月下旬より、忠や付添つていた原告きくえから、たびたび耳鳴りがあることや、難聴の程度が悪化したことを訴えられるとともに、再度山大病院耳科での聴力検査や同科での治療を受けさせて欲しいとの要望を受けたが、耳科での検査・治療に伴う体動が前同様悪影響を及ぼすとしてこれを制止し、そのため同月下旬忠が上部医師に無断で耳科に赴き、耳の治療を受けるとともに投薬を貰い服用するに至つたが、同年三月一日になした尿検査の結果尿中糖量が増加したことから、右増量は耳科の施用したタンデリールの副作用によるものと考え、そのころ忠や原告きくえに対し耳科から渡された薬は忠の腎臓に負荷を与えるゆえ服用を中止するようにと指示し、爾後無断で耳科の検査や治療を受けないように注意を与えた。そして、そのころから、忠や原告きくえから忠の難聴や耳鳴りなどはカナマのシンの副作用ではないかと不安を訴えられたが、カナマイシンによる副作用であることを明らかにせず、かつ、その継続投与が、忠の治療に必要不可欠であるとの説明もしないで、引続きこれを筋肉注射して投与した。同年四月一〇日再び耳科の診療を受けさせ、両耳の鼓膜が軽度に陥凹していると診察されたため耳鳴りについて通気療法を受けさせ、またビタミンB12も引続いて投与したものの、その後も忠の難聴の程度は徐々に進行して音が聞こえなくなつた。このため忠や原告きくえは右難聴や耳鳴りはカナマイシンによる副作用であると確信し、これを継続投与する山大病院から退院しようと考えて同月二八日転院希望を出した。このようにして結局忠は同年五月一〇日退院したが、上部医師は退院当日まで前記のとおり一日当り一グラムを継続投与した。

6  忠は右退院当時、カナマイシンを連続投与されたことによる副作用として両耳とも感音性難聴に陥り、その程度は右耳が八八デシベル、左耳が九〇デシベルに聴力が損失し、身体障害者等級表による級別で三級に該当し、その聴力損失はもはや治療による回復は困難な状態に至つていた。忠は四一年七月二〇日右事由により身体障害者手帳の交付を受け、その後昭和四四年九月九日同手帳の再交付を受けており、補聴器を用いても日常会話は著しく困難であり、執務をする際にも筆談をせざるを得ず日常生活に著しい支障を来たすことになつた。

忠は、山大病院を退院した日に山口赤十字病院に入院し、昭和四〇年九月二〇日に退院したが、この間腎孟腎炎、糖尿病、神経性難聴との診断で、主に前二者の治療を受けたけれどもカナマイシンは施用されなかつた。その後昭和四一年五月二六日より昭和四二年二〇日まで弥富診療所に通院し、肺結核、糖尿病・動脈硬化症・急性腎孟腎炎と診断され通院治療を受けたが、カナマイシンを用いての治療方法は受けず、その後昭和四二年一一月二六日から昭和四三年三月二〇日までと昭和四四年一二月五日から昭和四五年八月四日までの間、全真会病院に入院し、肺結核・糖尿病・急性腎孟腎炎・動脈硬化症・糖尿病等と診断され、入院治療を受けたが、カナマイシンの注射はされなかつた。そして昭和四六年八月一一日松井病院において糖尿病・腎炎・高血圧症・急性虫垂炎等と診断され、同病院に入院し、同月二〇日急性虫垂炎より尿毒症を併発して死亡した。

なお、原告らは、カナマイシンの連続投与の結果、忠はその副作用として、三叉神経が犯され、歩行が著しく困難になつたものと主張する。成程、原告増野きくえ本人尋問の結果中、右主張にそう部分があるけれども、他方<証拠>によると、忠は山大病院を退院した昭和四〇年五月一〇日から山口赤十字病院に入院し、腎孟腎炎、糖尿病等のため同年九月二〇日までの間治療を受け、その後も、全真会病院、弥富診療所、松井病院などに相当長期間入通院する必要のあつたことが認められるので、この事実からして山大を退院した当時も体力や運動神経も相当衰えつつあつたものと推認され、加えて右証拠によつて山大病院入院前から左視神経が委縮し、視力がほとんどなかつたと認められることからすると、前記平衡感覚の支障は、本件カナマイシンの副作用にもとづくものであるとは直ちに認められない。

三1  ところで、当事者間に争いのない忠と被告間の診療契約は、症状の医学的解明とこれに対する治療行為を行う事務処理を目的とした準委任契約であると解される。そして前掲各証拠によれば、忠の疾患は糖尿病性腎孟腎炎であり、その治療方法として抗生物質による治療方法しか残されていなかつたことが認められ、この認定を左右するに足る証拠はないところ、被告には、右患者の疾患を治療すべき債務があり、被告の履行補助者たる医師は、善良なる管理者の注意義務をもつてその債務を履行すべき義務があるのはもとよりである。しかし、医師が患者の疾患を治療するため行なつた行為が、それ自体治療として有効であるとしても、右治療行為によつて患者の身体に重大な副作用を発現せしめる危険が知られている場合においては、患者の生命及び健康を管理すべき義務に従事する医師としては、患者の疾患の状態から、本来の治療目的上、その疾患の治療が緊急で、その際の副作用の発生を避けることのできないような場合を除き、副作用によつて患者に重大な損害(殊に重篤な治療不可能な障害)を与えないように治療方法を考えるとともに、重大な副作用の発生を防止するための最善の注意義務を尽すよう要求されるものと解するのが相当である。この意味において、投薬による治療行為に当つては、疾患に対してほぼ同じ治療効果があるならば副作用の少い薬を選択すべきであり、身体に重大な副作用を発現せしめる危険のある薬の投与が必要である場合には、その使用に当りこのような副作用発生の防止のため最善の措置をとるべきであり、その投薬方法も疾患の治療効果のある範囲内で通常副作用の発生しないと指摘されている用法で用うべきであり、他方副作用の発生の十分な予防措置を講ずべきであると解するのが相当である。

2  <証拠>によれば、腎孟腎炎等の腎臓障害の治療にカナマイシンが用いられるが、同薬はその副作用として第八神経を侵しやすく、その結果耳鳴り、頭痛、難聴等の障害を発生せしめ、回復治療不可能な難聴にも陥らすことがあり、特に腎機能障害のある者には副作用の発生があらわれやすくしかも腎臓そのものに対しても重大な障害を与えることがあること、通常一週間に三ないし四グラム以下の使用では概ね副作用の発生はおこらないとされているが、一週間に六グラム以上では副作用が激増することが指摘されていること、カナマイシンによる聴神経の侵害は、まず毎秒四、〇〇〇ないし八、〇〇〇サイクルの周波数の音に対する聴覚から始まるが、人の通常の会話は、約三、〇〇〇サイクル以下の音で行なわれるため、右初期の障害は自覚されることがなく、またはじまるに先だつて、耳鳴りや頭痛等の自覚症状がある場合もあり、従つてカナマイシンを投与したことによる聴神経侵害の副作用の有無を発見するためには、オージオメーターによる聴力検査を行い四、〇〇〇サイクル以上の音に対する聴力の減退がはじまつているかを調べることが必須であり、また、四、〇〇〇サイクル以上の音に対する聴力の減退にとどまつている場合は未だ聴力の回復が可能であるが、三、〇〇〇サイクル以下の音に対する聴力の減退が始まつて患者に自覚症状があらわれた段階ではすでにその回復は不可能で、このためにも、オージオメーターによる聴力測定が必要であることが一般的に指摘されていたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

以上認定したカナマイシンの副作用の発生とその内容を考えると、カナマイシンを用いる場合、その用法としては連日多量に用いるのではなく、一定期間内に副作用の発生しがたいとされる量を用いる方法も十分検討すべきであり、患者の疾患の状況から一日当り一グラムずつ連日用いる必要があるとの医師の判断は極めて慎重になすべきものと考えられる。そして、カナマイシン注射を長期間にわたり継続して行うつもりである場合、前記副作用の発生は高度の割合で考えられるから、予じめ、副作用の発生の予防のための投薬等の措置をなすものとともに、副作用からの回復治療可能な段階にある間に障害の早期発見に努め、そのために患者ときにはその付添人に対し右副作用の発生がありうることを十分説明し、自覚症状があれば直ちに医師に報告するように協力を求めるほか、オージオメーターによる聴力検査等により副作用の発生を早期に探知し、その場でカナマイシン注射にかわる疾患の治療方法の発見に努めるか、カナマイシン注射の一時的中止若しくは投与量の減量の措置を考慮するほか、右発生した副作用についてその治療のための措置を講ずべきであると解するのが相当である。

四1  右に判示したところを前提として、前記認定の本件カナマイシン注射施用に際しての被告履行補助者たる医師の行為について以下検討する。

なお、忠の主治医について、原告は上部医師であると主張し、被告は三瀬教授であると主張するが<証拠>によれば、山大病院第二内科の組織上、同内科主任教授の三瀬教授が忠の主治医となり、毎週一回忠の回診をなしていたものであり、他方同病院助手の上部医師が忠の担当臨床医として、三瀬教授の指導を仰ぎながら、自ら忠の診察、各種の検査をなし、その治療方法を決定してその治療にあたつてきたことが認められ、これに反する証拠はない。そうすると、忠の主治医は三瀬教授であると認められるが、三瀬教授及び上部医師はいずれも被告の履行補助者であるうえ、前記二項認定のとおり忠の実際の診療行為に当つたものは上部医師であるから、本件診療契約における債務不履行の事実の存否は、右上部医師のなした治療行為について検討するのが相当である。

2  上部医師は、前記認定のとおり忠の疾患に対し昭和三九年九月三〇日から翌四〇年五月一〇日に至るまで、ポリミキシンBのみ有効であるとの検査結果に伴なう八日間の中断期間を除いて連日、カナマイシンを一日当り一グラム筋肉注射したものであるが、その間において、一週間に何回、合計何グラムと回数重量を定めてその範囲内で施用する方法や、治療効果を妨げない限度で副作用に対する考慮を加えて適宜減量或いは一時中止する等の措置をしなかつたことが明らかである。

そして、カナマイシンにかわる抗生物質として昭和三九年一〇月二九日から同年一一月一日まで用いたポリミキシンBについては、その後再度細菌耐性検査を試みることもせず、その他同種検査の結果有効であるとの結果が出た抗生物質について、その有効性の程度に劣るとして施用しようとも考えなかつた。この点について被告は忠には当時死の危険さえあり、これを免れるためなしたカナマイシンの連続投与は、不可欠のものであつて、その結果聴力の減退喪失に至る危険のあることは熟知していたけれども生命の維持のためやむをえなかつた旨を主張する。<証拠>によれば、上部医師が前記認定のとおり前後一五回に亘つて実施した薬物耐性テストの結果として、昭和三九年一〇月二八日のテスト以外は、カナマイシンが常時有効な薬と判定されたが、なお、昭和四〇年一月五日になつてはじめてテストしたアミノベンゾールペニシリンは、それ以降毎回カナマイシンと同等またはそれ以上有効と判定されており、またポリミキシンBおよびコリミシンのテスト回数は一、二回に止まってはいるものの一応有効であつたことが認められるところ、同人が右検査結果にもかかわらず、アミノベンゾールペニシリンを投与しなかつた理由は前記認定のとおり(1)ペニシリンシヨツクの危険があつたこと、(2)同薬の腎機能に及ぼす腎毒性の副作用の有無についての知見が乏しかつたこと、(3)同薬が当時未だ保険薬として認められていなかつたことの三点にあつたものである。しかしながら、右(1)については、忠がペニシリン含有物を従前使用していたこと乃至は同人の体質等から来るシヨツクの危険度について具体的に安全性のテストをしたうえでこれを採用できないとしてカナマイシンを選んだ等の事情の立証はない。(2)の点については、上部医師あるいは三瀬教授において担当医としての立場で調査研究したのに明らかにならなかつたためやむなく使用をひかえた等の事情の立証はない。のみならずカナマイシンにも元来腎毒性のあることは、前記認定のとおり泌尿器科から、カナマイシンの投与を控えるべき旨の意見が出されていることによつても窺われるところであり、これに対して難聴をきたす危険をおかしてまで当初からカナマイシンのみに頼り、アミノベンゾールペニシリンの投与を試みなかつたことについては、これを首肯するに足る事由の立証はない。(3)の点については、結局は、忠の経済力の問題であるから、弁論の全趣旨によつて認められる当時の忠や原告らの生活水準からして聴力の減退、喪失を防止しうるとすれば、保険の対象外の薬物投与をためらつたとは想像し難いところであつて、これを投与しなかつた事由として首肯するに足るものではない。

なお、<証拠>によれば、上部医師は前記認定のとおり難聴を訴えられたのちの昭和四〇年四月六日に至つて、カルテに「アミノベンゾールペニシリンの使用を考慮しよう」と記載しており、このことからして難聴を避けながらの治療方法として同薬の使用が元来全く非現実的ではなかつたことも認められるところである。これらの点を考えればカナマイシンの連続投与が不可欠であつたとの被告の主張には疑問がある。

また上部医師はカナマイシンの連続多量の施用により、副作用として第八神経を犯し耳鳴りや難聴に陥らせることを知悉しながら、忠や付添人の原告きくえに対して起りうべき難聴について自覚症状の早期申告を求めるでもなく、回復治療可能な段階で難聴の発生を早期に発見すべく予じめ定期的に聴力検査を行うなどの措置もとらず、また進んで山大病院耳科にその検査を依頼しようともしなかつたため、昭和四〇年二月ころから耳鳴りや難聴を訴えられて、初めて同月一七日に同大学耳科に依頼してオージオメーターによる聴力検査を受けさせたが、すでに忠は両耳とも相当程度の神経性難聴に陥つている有様であつた。

ところが上部医師はこの検査結果にも拘らずなおカナマイシン注射の用法について検討し直すことなく、その後忠らから耳鳴りや聴力低下を強く訴えられても直ちに聴力検査を受けさせようとせず、かつ、山大病院耳科と密接な連絡のもとに難聴の治療に対処しようとせず、忠が耳科から得た治療薬についても、かえつて主たる疾患を悪化させるものであると判断してその服用を中止させるのみで、これを服用させながら右悪化を防止する方策を検討もせず、無断で耳科へ治療に行かないように説示するなど、副作用たる難聴の治療に十分な配慮をしなかつた。

また同年二月一二日から用いることになつたビタミンB12も予じめ予想される難聴に備えて投与したものではなく、変形性脊椎症等の治療に有効であるとして初めて用いることになつたもので、この他カナマイシン注射を施用したときから、高度の確率で予測される難聴に備えて投薬をする等の措置も構じなかつたものである。

以上に対し一日一グラムずつの連日にわたるカナマイシン注射が必要で他にこれに代る方法がなかつたことの証明はなく、また忠は入院患者とはいえ絶対安静を要するほどの容態であつたとは認められず、上部医師において副作用を発見するためのオージオメーターによる聴力検査や、自覚症状発生後の難聴の治療を受けさせるために、同一大学内にある耳科との連絡の下に忠の安静を害しない方法でこれを耳科に伴なうなどすることが不可能であつた等の事情を認める証拠はない。

以上要するに、上部医師は、忠の相当程度進行している糖尿病と腎孟腎炎の症状から、抗生物質中有効であるとの検査結果が出たカナマイシンを、難聴が発生する可能性の少い範囲内での施行方法を考慮することなく、安易に一日当り一グラムずつ施用することとし、その副作用の発生を承知のうえ長期間同一方法をもつて継続施用したもので、その副作用の発生についても回復治療可能な範囲での早期発見に努めることなく、その後自覚症状が出て、聴力検査の結果神経性難聴が発生したことが明らかになつた後も、もはやこれの治療は著しく困難であると考え、かえつて耳科外来への通院に伴う体動並びに同科での投薬等は忠の疾患を悪化させるものとの判断から、安静を害しない方法での耳科検査、治療等の方策をとることなくただ通院受診を制止し、積極的に難聴・耳鳴り防止のための措置をとることなく放置し、引続きカナマイシン注射を前同様の方法で施用したもので、上部医師はこれらの点において副作用の発生防止について、担当医師としての注意義務に違背したものがあるというべきである。

五従つて、被告は、その履行補助者である上部医師のなしたカナマイシン注射の結果として忠に発生せしめた難聴の傷害について、これと相当因果関係のある損害を賠償すべき義務がある。原告ら主張の損害の範囲、数額を検討すると、次のとおりである。

1  治療費等の一部

<証拠>によると、忠は、全真会病院に、昭和四二年一一月二六日から昭和四三年三月二〇日までと、昭和四四年一二月五日から昭和四五年八月四日までの間、二回にわたり入院し、いずれも主として糖尿病・腎孟腎炎・肺結核の治療を受けたが、両耳の難聴については、既に両耳とも感音性難聴が固定し、その回復治療がほとんど不可能なため、その難聴の進行を防止し若干回復させる目的で主として神経賦活剤の投与の治療を受けたものであること、そして右難聴自体の治療のためにことさら同病院に入院する必要はなく、右入院は専ら忠の罹患していた糖尿病・腎孟腎炎等の治療の目的であつたこと、右入院に伴い忠が同病院に支払つた金額は、第一回目の入院の際七万六二八〇円、第二回目の入院の際二六万〇八四六円の合計三三万七一二六円であるが、そのうち難聴の治療のために投与した神経賦活剤の薬代は二一万七三六一円であることが認められ、これに反する証拠はない。そうすると、忠が難聴の治療のために全真会病院に支払つた金額は右神経賦活剤の薬代合計二一万七三六一円であると認定するのが相当であり、付添費および諸雑費は、忠の罹患した難聴とは因果関係がないこととなる。

2  慰藉料

忠は山大病院に入院した五七歳までなんら耳に不自由していなかつたのに、同病院退院時には右耳八八デシベル、左耳九〇デシベルと両耳ともほぼ全聾とついうべき難聴に陥り、その日常生活に重大な支障を来たしたばかりか、忠自身の精神的打撃、家族である原告きくえや原告町子に対する心痛も相当なものがあつたものと十分窺われるところである。そのうえ、前記二項5認定のとおり昭和四〇年二月ころから自覚症状が顕著になつた後、上部医師に対し聴力検査や難聴の治療方を求めたにもかかわらず、十分な検査や治療を受けられず、かえつて同大学耳科への通院治療を制止させられ、その後徐々に増強した難聴に堪えかねて同大学病院からの退院を考えるにいたつたものであり、その間の忠の憤懣は相当なものがあると推認される。そして上部医師の連日にわたるカナマイシン注射による治療行為をめぐる事情は前記認定のとおりであるところ、前掲各証拠によれば忠らは、右難聴がカナマイシン注射の副作用ではないかと強い疑いを抱き、右疑問を上部医師に投げつけながらも、同病院を退院した当日までカナマイシン注射を拒否していないことが認められるので、忠は上部医師の診療行為に非協力的であつたものとは到底いえず、上部医師に無断で山大病院耳科の治療したことも、右諸事情を考慮すると、特段に非難すべきものとは認められない。

原告らは、忠が山大病院退院後、当時就任していた須佐町長職を遂行し得る程に体力を回復していたものの、カナマイシン注射の副作用により発生した難聴のため、同町長を辞職せざるを得ず、かつ、同病院入院前に企てていた山口県議会への立候補も断念せざるを得なくなつたと主張する。しかしながら、前記二項6で認定したとおり、忠は山大病院退院後直ちに山口赤十字病院に入院し、その後昭和四六年八月二〇日死亡するまでの間、糖尿病・腎孟腎炎・肺結核・神経性リウマチ炎などの治療のため相当長期間多数の病院に入通院を余儀なくされていることが認められ、そうすると山大病院退院後には、もはやほぼ慢性化した糖尿病・腎孟腎炎等の疾病のため、相当激職である町長職や県議会議員の諸活動は著しく困難であつたものと推認されるので、原告ら主張の右の点は、忠の精神的損害を考えるについて積極的に評価すべき事情とすることができない。

ところで、原告増野きくえ本人尋問の結果によれば、忠は、昭和四〇年九月中旬ころから須佐町役場に赴いて執務をすることになつたが、しばしば難聴などの病気治療のため早退し、難聴のため会話も困難になり筆談によつて執務をしたため、一見して顕著な右難聴を指摘され、須佐町議会から退職勧告を受けるなど不本意な形での辞職をしたことが認められる。

以上認定の諸事実および前記判示した上部医師のおかした注意義務違反の内容と、前掲各証拠によつて認められる上部医師において重症である忠の主疾患の治療に熱意を以て当り、この治療乃至症状悪化防止の目的は十分に達したことその他本件に顕われた諸般の事情を総合考慮し、右治療に伴う副作用として生じたカナマイシン難聴について、忠が蒙つた精神的損害の慰藉料としては金二〇〇万円を相当と認める。

六以上によれば、忠の受けた治療費の損害及び精神的損害の合計額は金二二一万七三六一円であり、被告は当事者間に争いのない原告らの相続の事実及び相続割合に従い、原告きくえに対し金七三万九一二〇円、原告町子に対し金一四七万八二四〇円を支払う義務がある。ところで原告らは遅延損害金として忠の退院の翌日以降年五分の割合による金員を請求するが、債務不履行による損害賠償債務は催告を受けてはじめて遅滞に陥るものと解すべきであり、他に催告の事実の主張のない本件では記録上明らかな訴状送達の日である昭和四六年一〇月二七日に付遅滞の効果を生じたものとして、その翌日以降の遅延損害金の請求のみ理由があるというべきである。

よつて、原告らの本訴請求は、右の限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当として棄却すべく、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条第一項を、仮執行の宣言につき同法第一九六条第一項を適用して、主文のとおり判決する。

(横畠典夫 杉本順市 柴田秀樹)

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